ごあいさつ 〜齋藤英之から大切なお客様へ〜
弊社のホームページをご覧いただき、ありがとうございます。
株式会社斉藤林業 代表取締役の齋藤英之です。
私たち斉藤林業は、厳選した群馬の木の家を自社工場で製材・加工し、お客様と私たち作り手の、
“愛着と誇りが宿る住まいづくり”のお手伝いをさせていただいております。
元々は林業を生業としていた斉藤林業が、住まいづくりのお手伝いをさせて頂くようになって30年。
この間およそ1,000軒近くの木の家のお引渡しをさせて頂きました。
その数々の出来事を通じて、気づいたことがあります。
それは、住まいとはあくまでも
「お客様が幸せに生活するための道具」に過ぎないということです。
ほとんどの方にとって、家づくりは一生に一度の一大イベントです。
「あれもしたい、これもしたい」と、住まいそのものに夢を見てしまうと、決して良い家は建ちません。
大切なのは、住まいを建てた後にどんな暮らし方がしたいのか?を、しっかり考えることです。
私たち斉藤林業は、愛着と誇りが宿る住まいづくりを通じて、
お客様のこれからの豊かな暮らしづくりのお手伝いをさせていただきます。
そして、家づくりを通じて3つの幸せを
お客様にご提供することをお約束致します。
私たちは、この3つの幸せが揃った時に初めて、
お客様に本当の意味での「幸せ」を感じて頂くことが出来る。
そう考えています。
私たちの考える3つの幸せとは・・・
「健康な体で暮らせる幸せ」
「豊かな心を育む幸せ」
「お財布に安心が持てる幸せ」
これは私がこれまで家づくりに携わらせていただく中で感じた、幸せの定義です。
この3つの幸せをご提供するために、斉藤林業はこれまで日々向上を重ねてきました。
私たちの想いについて、そして私たちの家づくりについて。
このホームページを通じて、少しでも伝われば幸いです。
少しばかりお時間を頂いてしまうかと思いますが、最後までお付き合いいただければと思います。
どうぞ皆さま、よろしくお願いいたします。
また私の家づくりへの想いを、私の半生を振り返りながら僭越ながらまとめさせていただきました。
少々お時間を取らせて頂くことにはなりますが、
初めて弊社のホームページに足を運んで頂いた皆さまには、
是非一度ご覧いただきたい内容となっております。
何とぞよろしくお願いいたします。
齋藤英之物語 〜愛着と誇りが宿る住まいには、人生を変える価値がある〜
※スライドでご覧になる場合は、右ボタンをクリックしてご覧ください
※効果音が出ます
「あん時のままだな」
ここに来ると、いつもあの人の事を思い出す。
何十年も前の出来事だが、忘れる事が出来ない。
当時のままの姿で残るこの家を見ると、嬉しさと懐かしさが込み上げてくる。
あの人が居なかったら、斉藤林業は今こうして家づくりをしていないだろう。
「林業と木材の販売は辞めて、住宅だけにしようよ」
そう社内に提案したのは私だった。
家づくりを片手間でやってはいけないと、気づかされたからだ。
少年の頃に夢を持てなかった私が、自分の夢に向かって走り出した瞬間だった。
<夢のない少年>
「おふくろを助けなきゃ」
学校の授業が終わるとバイクで家に帰り、森の中で日が暮れるまで仕事をする。
少年の頃、それが私の日課だった。
夏には農業、冬には林業。
半農半林(はんのうはんりん)の仕事は、少年の私にとって決して楽な仕事ではなかった。
「自分の家は不安定な商売をしている」、父が立ち上げた斉藤林業について、少年の私はそんな風に思っていた。
そして家計を支えるために、毎日懸命に父の仕事を手伝う母の姿を、幼い時から見ていた。
それが何よりも辛かった。
母や親せきは、私に将来は公務員になる事を切望したし、私もそれを望んだ。
食べて行くために、自分の夢の事なんて考える暇もなかった。
母に楽をさせてあげること、食べていくことが最優先だった。
そして私は高校を卒業後、みなかみの消防署で公務員として働き始めた。
これが人生の転機になった。
<人の役に立つ喜び>
いっちに!いっちに!
訓練場にはいつも号令が鳴り響いていた。
(こりゃ軍隊みたいだな)
そう思うほど、消防署では礼儀や規律を重んじた。
毎日の訓練をしながら、事件事故が発生したら現場に駆け付ける。
迅速な対応をするために、礼儀や規律は大切なことだ。
社会人として大切なことの基礎は、消防署時代に学んだことだと思う。
私はそんな毎日が楽しくて仕方なかった。
消防車・救急車の運転、火災現場、事故現場への出動。
今は分野が分かれているそうだが、当時は全ての業務をやった。
毎日の訓練や出動も、山の仕事の大変さに比べたら全く苦では無かった。
何より人の役に立つことへの喜びを実感できる毎日だった。
怪我をしている人、病気の人からもらう、たった一言の「ありがとう」。
その言葉が、何よりの励みだった。
しかし私の消防署勤務は、わずか2年で幕を閉じることになった。
消防署の退職金だけでは、実家の借金が返せない事がわかったからだ。
このまま消防署に残るか、斉藤林業に入って家業を助けるのか?
決断を迫られた時、迷いがあった。
人の役に立てる消防署の仕事が、大好きだったからだ。
「ずっとこの仕事を続けたい」そう思うほど、毎日が充実していた。
月日が経った今でも天職だったと思っている。
でも、同じように木も大好きだった。
小さいころから山の中で家業を手伝ってきた。山に育てられたと言ってもいいくらいだ。
自分の心の中に、木に対しての深い愛情があった。
木を扱う仕事ってやり方を変えたら、もっと楽しさがあるんじゃないか?
家業に入って山の仕事に従事すれば、おふくろの助けになるんじゃないか?
自分が入れば借金が返せるんじゃないか?
・・・
私は、斉藤林業に入社する決意を決めた。
<決断の先に>
その当時の日本は、外国の木材がどんどん入り始めた時代だ。
日本の木を育てる斉藤林業が食べて行くためには、新しいことをやる必要があった。
このままじゃ食べていけないのは目に見えていた。
「木を育てるだけじゃなく、大工さんに木材を売る事業を始めよう」
それから、必死の毎日が始まった。
木材を売るには、建築の事をもっと知らなくてはいけない。
独学で、他の会社の現場に足を運んで勉強した。
そして大工さんと付き合うごとに、部位の名前と使い方を覚えた。
消防署時代、建物を建てるには様々な許可が必要な事を知って以降、
建築には興味があった。だから、学べるのは楽しくもあった。
次第に知識と技術を吸収し、家一軒分の見積もりを作れるまでになった。
同じく木材を販売する材木屋にも、家一軒分の見積もりを作ることは出来ない。
それが出来たのは当時、大手メーカーだけだった。
次第に斉藤林業は大工に重宝がられた。
忘年会や新年会には必ずお声がかかったし、「おめーは払わなくていい」と、
大工達は私から一切お金を取らなかった。
一番年下だけど、大切にしてくれている。
そう思うと、嬉しかった。
しかし数年後、様子が変わった。
いつの間にか、斉藤林業は大工達のライバルになっていた。
当時社長である父が、倉庫や物置を作る仕事を取り始める様になった影響で、
大工達の中で徐々に「斉藤林業イコール建築屋」というイメージが付いてきたからだ。
「お前が建築の仕事を取るから、俺らの受注が取れねーんだ。
だから木材なんか買わねーよ」
大工達がそう思うのは当然のことだった。
わざわざライバル会社から、木材を買わない。
「・・・だったら販売をやめて、建築だけにしようよ」
私は社内にそう告げた。
斉藤林業はあっさりと林業と木材の販売から手を引いた。
そして、住宅会社として新しい道を進む決意をした。
<家づくりとは>
「斉藤林業に家なんて建てらんねーべ」
行く先々で、全く相手にされなかった。
林業と木材の販売を辞めて、住宅会社になろう。
自分の考えが甘かったのか・・・
断られる度に、そんな考えが頭をよぎった。
家の仕事をどうやって頂いたらいいのか、全くわからなかった。
これまで私は、自分が食べていく事を優先に考えて生きてきた。
斉藤林業が大工達に材木を販売するようになったのも、
その目的はあくまでも、自分が食べるためだった。
でも、住宅の仕事は違う。
木材の販売が上手くいかなくなったとき、私が販売を辞めて住宅の仕事に専念したいと思ったのは、
ただ食べて行くためではない。
ある人の事が思い浮かんだからだ。
・・・私が消防署を退職して間もなくの事。
消防署の大先輩から仕事を頂いた。
「お前が安定を捨てて家業に入ったのは素晴らしい。お前に家を作ってもらいたい」
その方は私の直属の上司ではなかったため、消防署時代には、ほとんど話したこともなかった。
当時の私は、家なんて作ったこともない。
何も知らないし、何も出来ない。
でも、自分を応援してくれている先輩の期待を裏切れない。
ありがたく、私は仕事を受けさせてもらうことにした。
この先輩の家が、斉藤林業が初めて手掛けた住宅になった。
右も左もわからないなか、とにかく必死に動いた。
蛇足だが現在の斉藤林業でも、「大黒柱GET!」というイベントをやっているが、先輩の家を建てる時に、
現金を持って二人で前橋の銘木屋さんへ木材を買いに行った体験が、今のイベントの原点だ。
「どうせ払うんだから」と、私を信用して家を建てる前に費用も全額お支払いいただいた。
大変な毎日だったが、家づくりをする中でお互いに思い出が沢山できた。
お引渡しの時、「お前が一番がんばったんだから、一番風呂に入れ」と言って頂いた。
当時自分の家にはシャワーがなく、初めてお湯の出るシャワーに感動した覚えがある。
何より、自分の初めてのお客様の家での一番風呂。
こんなに嬉しい事はなかった。
・・・「家の仕事を頂くのって、どれだけ大変でありがたいことだったのか・・・」
わかっていたはずの“重さ”に、本当の意味で気づいた瞬間だった。
先輩の家を建てさせてもらって、お客様と思い出を共有しながら、
長いお付き合いができるのは住宅の仕事だけだと気が付いた。
木材販売の仕事が上手くいかなくなったとき、先輩の事が思い浮かんだ。
販売の片手間で家を建てるなんて、あり得ないと思った。
家は幸せと連動してくるもの、片手間じゃ絶対にダメだ。
家って、そういうもんじゃないよな。
家づくりは決して、自分たちが食べていくためだけの商品ではない。
だから自分の会社の大工達に、片手間で家づくりをさせるのが嫌だった。
そんな生半可な気持ちで家づくりをするのは、お客様に嘘をついているのと同じだ。
先輩の事を思いだし、涙が止まらなかった。
<感謝の矛先>
自分の作った家には、いつまでも愛着がある。
でも2〜3年経つと、お客様はそうじゃなくなっていると気づいたのは、
徐々に建築の仕事を頂けるようになって数年後のことだ。
家を建てた後にお客様の所にお伺いすると、ご飯を食べさせてくれたりと、凄く良くしてくださっていた。
でも自分の想いとお客様の想いが、少しずつズレていく事にも次第に気がついていった。
「何処で家を建てても同じ」、何故だがそう思われている様な気がした。
打ち合わせの時の話や、家づくりのストーリーの話が、月日が経つにつれめっきりなくなってきたからだ。
それは当たり前のことだった。
当時の斉藤林業には、「太い木を使う!」という売り文句しかなかった。
だから当然、お客様もただ単に「良い材料で家を建ててくれた」以外の感謝が見つからない。
「家づくりは一生に一回なのに、なんで感謝してもらえないんだろう?」
お客様が気づかない内に家に求める価値観が、きっとあるんだろう。
・・・じゃあ、その価値観ってなんだ?
<暮らしの提供>
「北海道の家は、なんであんなに暖かいんだろね?」
仲間内でそんな話題が度々出る様になったある日、北海道で開催される家づくりの勉強会に行く機会があった。
そこで衝撃があった。
今までの家づくりの概念が全て崩れた。
「太い木を使って、丈夫な家を建てる」だけが売り文句の斉藤林業の家と、北海道の家は丸っきり違った。
実際に住まわれている方の話を聞いて、それに気が付いた。
「“暮らし”だ! 丈夫な家を作るのは当たり前で、
お客様にどうやって快適に暮らして頂くかを考えなくちゃいけないんだ!」
家はあくまでも、家族が幸せに暮らすための道具に過ぎない。
だから、丈夫なのは当たり前だ。
作り手である私たちが提供しなくてはいけないのは、家の中での快適な暮らし。
そのためにまず、家は暖かくなくちゃいけない。
今では当たり前になったが、当時の北海道の家は「高気密高断熱住宅」と呼ばれていた。
高気密高断熱住宅は、一言でいうと通常の家よりも“暖かい家”だ。
しかし当時の群馬には「高気密高断熱」という言葉すらなかった。
居ても立っても居られなくなった。
その後私は北海道に住み込みで一週間滞在し、北海道の暖かい家づくりを学んだ。
北海道の家づくりを、どうにか群馬に持って帰りたい。
早くお客様に、暖かい家での快適な暮らしを提案したい。
早くお客様から、住み心地の感想を聞きたい。
私の次の挑戦が始まった。
<挑戦の先に見えたモノ>
「ようこそいらっしゃいました、ゆっくり見学して行ってください!」
北海道からノウハウを持ち帰り、やっとの思いで完成した“暖かい家”を見学するために、
100組近くのお客様が集まった。
これまで集客ゼロの斉藤林業の完成見学会に、
これだけのお客様に集まって頂けたことに大きな喜びを感じた。
斉藤林業の“暖かい家”は、小中の同級生の家が第一号となった。
「頼む、とにかく俺に騙されてくれ。絶対に家中暖かい家を作るから!」
頭を下げて頼んだが、出来るかどうかなんて本当はわからなかった。
なにせ群馬には、暖かい家を建てる技術も無ければ、資材もなかったからだ。
でも、絶対にこの家を喜ぶ人がいる。
そう確信していた私は、一刻も早く動き出したかったのだ。
こうして初めて手掛けた“暖かい家”は、予定の工期を大幅に過ぎてやっとの思いで完成した。
一部屋作るのに丸一日かかったり、断熱材の扱いがわからなかったり。
とにかく建築中は色んな問題が続出し、工期が大幅に遅れたことで、経営難にも陥った。
でも諦めるわけにはいかなかった。
「絶対にこの家を喜んでくれる人がいる、だからまずこの家を完成させて喜んでもらうんだ」そう信じて耐え抜いた。
完成見学会に沢山のお客様が来場いただいた時は、本当に嬉しかった。
結果的にその時に見学会に参加頂いたお客様からすぐに次の発注を頂くことになり、
住宅会社としての斉藤林業の名前と、“暖かい家”の事が少しずつ認知されていった。
「この前ね、家に遊びにきた親戚が“この家どうしたの!?
なんでこんなに暖かいの”って驚いてたのよ」
お施主様からそんな言葉をかけられる度に、嬉しかった。
自分が信じたことが、間違いではなかったんだと思った。
<何のために家を建てるのか?>
幸せとは「体の健康」「心の豊かさ」「“お財布”の安心」の3つで成り立っていると思う。
家を建てるのは、幸せになるためだ。
そのためにはまず、健康に過ごせる家を提供する必要がある。
そう気づいたのは暖かい家を作った後に、健康被害が出た時のことだ。
「なんだか頭が痛いの・・・」
原因は家の一部に使用していた新建材(化学物質を含んだ材料)だ。
新建材を使っていた理由は、新建材を使うのが当たり前だと思っていたからだ。
それ以外の家づくりを、私は知らなかった。
北海道で気が付いた、お客様に快適な暮らしを提供したいという想い。
それを実現するために、暖かい家を作った。
でも結果的には、自分の手掛けた家でお客様の暮らしを悪い方に変えてしまった。
それが申し訳なくてたまらなかった。
「家は幸せになりたいから建てるものだよな? そのために一番大事なのは健康じゃないのか」
どんなに涼しくても暖かくても、健康には変えられない。
健康な体があってこその幸せだ。
問題が起こって初めて、そう気が付くことが出来た。
「家には国産の無垢材を使おう、匂いも色も艶も、国産材に敵うもんはない」
頭が痛いという話を聞いて、余計にそう思った。無垢材は天然の物なので、健康被害は出ない。
昔嗅いだ国産の木の匂い、色や艶。
幼いころから木に触れ合ってきたからこそ、その良さは誰よりもわかっている。
でも、そのまま使っては新建材ほどの強度が出ない。
どうやったら、強度を保ったまま木材を乾燥させるか?
それが一番の問題だった。
<木への愛情>
健康な家づくりを目指す上で、ある考えがよぎった。
200年前に建てられ、今でも日本に現存する建物は、2万戸。
機械も何も無い時代に作った建物が、2万戸も残っている。
でも現代の技術を駆使してる家が、30年しか持たない。
なんなんだ・・・
(そういや昔の家には囲炉裏があったよな、家の寿命と何か関係あるのかも?)
何気なく興味を持って調べたら、“燻煙乾燥”という物があると知った。
煙でいぶす、木材の乾燥方法だ。
希少価値材になっている将棋や碁の盤は、この燻煙乾燥が施されているという文献を見つけた。
その時、私の中の点が線になって繋がった。
「そういえば生の魚も煙でいぶしたら腐らないよな! だから昔の家は長持ちしたんだ!」
やると決めたら、突き進む性分だ。
燻煙乾燥は自分の描いていたイメージにピッタリと合った。
お客様の幸せにとって、木にとってプラスになると思った。
その後、縁あって出会った会社で、燻煙乾燥炉を作るためのノウハウを教わり、
沼田のバカでかい土地に工場を建てた。
しかし、工場が出来てもすぐに実用には至らなかった。問題が沢山あったからだ。
積んでいた木材が崩れたり、上手く乾燥させれなかったりと、一つクリアするごとにまた違う問題が起こった。
特には、乾燥炉の温度を安定させるのに苦労した。
煙を起こすためには、火を使う必要がある。
最適な状態に木材を乾燥させるには、火の温度を一定に保たなければならない。
24時間管理体制で、私と社員で寝ずの番をした。
一時間に一回、温度管理表を見てチェック。
火災が心配で、結局1週間家に帰れなかった。
工場を作って以降は、そんな毎日を過ごしていた。
工場を建てた当時は大変だったんじゃないですか?と、たまに質問を頂くが、全然そんなことはない。
夢に向かって進んでいるので、楽しくてしょうがなかった。
失敗するなんて全く考えなかった。
その先にお客様の最高の笑顔がある。
最高の商品を提供するのは、作り手のエチケット。
私は今でもそんな思いでいる。
<斉藤林業の伝えたい価値>
畳で昼寝をしたり、柱に子どもの身長を書き込んだり、窓を開け放って感じる心地の良い風と、
そこから見える景色。思わず撫でてしまいたくなる木の手触り。
そういう豊かな心を満たす事が、家には必要なんだ。
それがあって初めて、家に愛着が持てるんだと思う。
家を建てた人はみんな、新しい家に感動して喜ぶ。
でも、それはあくまでも“家が建った時”の話しだ。
家そのものが良くないと、5年10年経った時に、価値があがらない。
斉藤林業でも「お引渡しからが本当のお付き合い」というスローガンがあるが、
大前提として良い家を作ってこその「お引渡しからが、本当のお付き合い」だ。
良い家じゃないのに、引き渡し後の関係性をアピールすることはしたくない。
「体の健康」「心の豊かさ」「“お財布”の安心」
家づくりを通じて、3つの幸せをお客様に提供することが、私たちの仕事だ。
お引渡し後にも、お付き合いをするのは当たり前の話だ。
お客様の3つの幸せを満たすために家を建てたのだから、その幸せが続くように私たちが責任を持ってメンテナンスをする必要がある。
斉藤林業は、ずっとそうやって家づくりをしてきた。
そうやってお客様の幸せの為に良い家を追求していると、何年経ってもお客様が嬉しそうに家の話をしてくださる。
「社長、見て見て。 この柱がこんな色になったのよ」
その笑顔がたまらなく嬉しい。
お客様の心の幸せが満たされていることを感じる瞬間だからだ。
だから、家には愛着とか風合いが大切なんだ。
建てる前のワクワクや、家が建った後の喜び。
いつまでもそれを感じることのできる、愛着が色褪せない家づくりをすることが一番大切だ。
<社長として思う事>
最高のお付き合いをしたい。
どっちが上とか、下とか、偉いとか。そういうのじゃない。
お客様でも社員に対してでも、その気持ちは同じだ。
「俺は社長だ!」なんて、言いたいとも思わない。
自分の人生を振り返ると、回り道を沢山してきた。
だから社員たちには、自分が40年かけて学んだことを10年で伝えたいと思っている。
そして、大切なお客様に3つの幸せをずっと提供してもらいたいと思っている。
教科書がない中、自分で教科書を作ってここまで来た。
自分を一番育ててくれたのは、今までのお客様だ。
商売をする中で、一番困ったのはお金のこと。
お金がなくて、支払いが間に合わない事も何度もあった。
でもその度に、「どうせ建った後に払うんだから、先に払うよ」と、
まだ家が完成していない中、費用をお支払い頂いたお客様が何人もいた。
私たちが家づくりを始めた時代にローン制度はなく、家はお金を貯めて建てるものだった。
そのお金を、まだ家が建ってもいないのに、私を信用してくれて払ってくれた。
領収書を書きながら、ボロボロ泣いた。
ホントに嬉しかった。
だから斉藤林業で家を建てて頂いた皆さんは、全て良いお客様だ。
過去の体験が私にそれを教えてくれた。
家づくりは一生に一回の買い物だ。
だからこそ、これまでのお客様に感謝の気持ちを持たないと、良い家は建てられないと思う。
こういった経験をしてこなければ、今こうして家づくりもしていなかったと思う。
特には消防署の2年間があって、大先輩の家を建てて気が付いた“重さ”が、
今の斉藤林業に繋がっている。
<愛着と誇りが宿る住まいには、人生を変える価値がある>
毎年恒例のお客様感謝祭の時に、あるお客様に声をかけられた。
「私たちが建てた時より、家がバージョンアップしてますね。嬉しい!」
自分たちは新しい仕様で家を建てられなかったけど、嬉しいと言ってくれた。
それが、本当にありがたかった。
「体の健康」「心の豊かさ」「“お財布”の安心」。
この3つの幸せをちゃんと考えて家づくりをしないと、必ず次の世代に負担が行ってしまう。
だから家を建てる時には、今ばかりを見てはいけない。
これから先の暮らしを考えて家づくりをすることが、一番大事なことだ。
そのために斉藤林業の家も、絶えずバージョンアップしていかなくてはいけない。
家の性能を良くすることは勿論、飽きずに長く住める、
お客様と私たちの愛着と誇りが宿る住まいを、ずっと作り続けなくちゃいけない。
今までお客様にお叱りも沢山頂いた。
でも皆さん「後のお客さんのために、今後は無い様にして」と言ってくださった。
私たちの事を、応援してくださっている人が沢山居る。
そういう人を裏切れない。
それが今まで、お客様をはじめ自分に良くしてくれた人達への、
恩返しだと思っている。
株式会社斉藤林業 代表取締役 齋藤英之